VRを使った自閉症の当事者体験
バーチャルリアリティを使って自閉症の人の体験をしようという勉強会に参加した。
そもそもVRとは?
VRとは、バーチャルリアリティの略で日本語で「仮想現実」と訳される。
今回装着したものは、スマホまたはパソコンの映像が流れるもので、3D化されかつ音もよりリアリティ化されているものだった。
すごいところは360度の映像と、首を動かすと視野の見え方も違ってくるところだ。
これをどう使うのか
今回は障害理解を深めるために映像による障害体験だった。そこで下の動画を見ていただきたい。2Dでも驚くものだ。
この動画をVRでみる。
参加者の感想は、特別支援教育の教員だけでなく、保育に関わる人も見るべきという意見が出た。
今まで車椅子体験など肢体不自由には触れることが多かったが、自閉症の当事者体験をしたことがなかった私にとって良い経験となった。
他の使い道
ある大学の教授はVRを使って遠隔支援システムを企業と共同研究している。
教室に高画質の全天球カメラを設置し、特別な支援を必要とする子の授業の様子を撮影する。その様子を遠隔にいる専門家がヘッドマウントディスプレイなどを装着して、実際の現場に近い状況で確認する、という流れだ。
効果として、教員や支援員の教え方や子どもたちへの対応について的確なアドバイスができる。
また他の使用法
このように教員に対するVRの応用が検証されているが、私は当事者を対象にした検証もなされて良いと思う。
自閉症の中には初めて行くところが苦手という子が多い。
そこで、自閉症の子が遊園地へ行く前に事前体験としてVRを装着してみる。
追体験することで不安が軽減されるのではないかと考える。
しかし、それをするには問題点が多い。
- 追体験をした時点でそこへ行きたくなくなる子が発生する可能性があること。
- VRの特性上、装着すると視界が限定されてしまう怖さによって、そもそもの体験ができない子が出てくること。
まずは自閉症の理解という意味で実用化されてほしい。
ベイマックスの大学入試制度
ディズニー映画『ベイマックス』
天才的頭脳を持つヒロが、亡き兄が発明したベイマックスを使って敵ボスを倒す話だ。
私が注目したシーンはヒロとベイマックスが果敢に戦っていくところではなく、14歳のヒロが大学へ入学したシーンだ。
入学年齢でまず驚くだろう。でももっと驚くべきところは大学の入試のやり方だ。入試方法はロボット展示会のプレゼンテーションの評価で合否を決めるものだった。
ヒロは自分自身で何日もかけて研究を重ねた。そして「マイクロボット」を発明し、見事大学入学への切符をつかんだ。
現実的にはこのような入試制度は不可能かもしれないが、こんな入試が私の理想だ。
これに近い形として日本の大学では、AO入試(Admissions Office)が設けられている。最近では国立大学でも設置が進み、2016年には東京大学でも開始された。
「日本ではAO入試の批判が多いようだが、狭い学力観に基づいていると思う。むしろすべての入試がAO入試になるべき。学力は多様性の中で判断すればいい」
このような意見を少なくとも落合陽一や尾木ママも語っている。
センター試験を課さない入試も増え、その制度で入学したものを「バカで怠け者」の受験逃れと批判する人もいる。
でもAO入試がないせいでこんな人がいるとしたらどう思うだろうか。
物理だけノーベル賞的にできるが、英語や社会が苦手でまともな大学に入れない生徒。
天体は周りに引けを取らないくらい得意だけど、多くの大学で入試科目に地学が存在しない。結果、第一線で研究できる大学には入れなかった生徒。
もったいないどころか、国家的損失ではないだろうか。
私の理想とする大学入試は、自分の得意分野の研究をアウトプットし、その評価で合否を決めるものだ。
大学入試がそんなものに変貌すると教養が欠如すると批判する人もいるかもしれないが、入試のためだけにやらされた知識が身になるとは思えない。
それよりも1つのことにのめり込むくらいの深い探究こそが真の知識につながるのではないかと思う。また、自分なりの探究を続けているうちに「△大の〇〇先生の研究室に行きたい」というような目標を持つことになる。自分の偏差値で入れそうなところを選んで大学に入ったりすることはなくなるはずだ。ましてや大学はテーマパークだと幻想する奴は論外だけど(笑)
2020年からは新しい大学入試に変えられ、高校教育の在り方も変わっていこうとしている。そんな中、今月発表された2022年から施行される高校学習指導要領改訂案には『探求』という言葉が重視された内容となっていた。内容をみると、私が理想とする「勉強と研究を交互に行う」の考えに合致したものといえる。
勉強は他人が研究した結果を学ぶこと
— アンタレス (@teacher2021elm) 2018年2月24日
研究は他人が勉強を可能な状態にしてやること
勉強と研究を交互にすることで学問や知識が広がっていく。
学校ではこれらのことを学ばないが、21世紀的にはどちらもできないと生きていけない
まだ試行されていないのでなんとも言えないが、先進的に探究を推し進めている学校も存在する。私が注目している学校は京都にある堀川高校だ。
小中ではクリエイティブな発想ができたのに高校では受験勉強に明け暮れ、知識の吸収速度は早まるが、アウトプットが苦手になってしまうことが多い。まさに失われた3年だ。そんな事態を是正するためにもまず大学入試制度を見直し、高校教育の変革を助長しなければならない。
英語教育
英語って必要なの?
と子どもに聞かれて「うん。グローバル化した中での英語は必須だよ」と答える人は多くいると思う。
でも、これだけIT化してスマホで簡単に翻訳してくれる時代に同じことが言えるのか。
だからこそ、周りの大人が「今の時代は英語」と口を揃えていうのに違和感を感じる。そもそもその大人が英語ができるわけでもないから説得力に欠く。
そんなことを胸の内にため続けていたときに、たまたまこんな本を読んだ。
今、世界中で注目を集めている科学者、落合陽一だ。
もちろん彼は、英語で論文を読み書きしたり、英語でプレゼンや授業をしたりしている。そんな人が英語について語るのだから説得力がないはずがない。
発信する内容もないのに、英語を学んでも意味はない。むしろグローバル人材という言葉が広がったことで、グローバルに話ができるトコロテンみたいな人(右から左に流すだけの人)が増えただけで、その分、実はコミュニケーションスピードが遅くなっている。英語だけできて中身のない人を雇うくらいなら、プロの同時通訳に任せた方が正確で仕事も断然早く進む。重要なのは、英語そのものではなくて、発信すべき内容があるかどうかということだ。
『日本再興戦略』落合陽一
同じようなことを林修も言っている。
「言語には2つの働きがあって、思考と伝達の働きがあるが、母語以外の英語は伝達の働きしかない」
2人の意見を総じて、私が言いたかったことは、
英語はあくまで伝達の手段
日本語で論理的思考ができない人が英語でもできるはずがない。英語教育を悪いとは言わない。でも、やみくもにやったところで力がつくはずがない。英語を学ぶことの本質を分かったうえで教育していかなければならないのではないかと思う。
あなたは信号無視をしますか?~規範とは~
誰もいない、誰からも見られていないところで、あなたは信号無視をしますか?
「こんなところで信号無視したところで、事故する危険性は低いし、そもそも誰からもみられていないんだもん」と思うのが普通です。
でも私は、信号無視したら引きずってしまいます。良心の呵責によって夜、眠れない時もあります。
性格上の問題もあるかもしれませんが、私の一つの信念がこんな小さなことでも情動を生み出すのかもしれません。
その信念とは、、、
規範を自分の中につくる
規範とはルールのことです。
世の中にはいろいろなルールが存在します。その社会規範を自分のものにするのです。
昨今再びブレイクしている『君たちはどういきるか』吉野源三郎著 の言葉を借りるなら、
肝心なことは、世間の眼よりも何よりも、君自身がまず、人間の立派さはどこにあるのか、それを本当に君の魂で知ることだ。そうして、心底から、立派な人間になりたいという気持ちを起こすこと
要するに、善悪の判断をするとき、他人の意見によって決めるのではなく、自分が良いと思うことを選択しなさいということです。
先に言った、「社会規範を自分のものにする」とは、社会がそう決めたからそれに従うのではなく、自分の良心に従って行動するということ。
自分の規範と社会の規範がお互いに行ったり来たりする相関関係でなければならないのです。
もう少し咀嚼して言うと、誰かから見られている、見られていないは関係なく、自分の思うままに動けることです。
信号無視のような、やってはいけないという否定形の規範に対して、肯定の規範を例に出すならば、電車の中で座席を譲るという行為があがります。
電車やバスの中でお年寄りの方や妊婦さんには席を譲らなければならないという法律がなければ、ルールも存在しません。
譲るかどうかは自分次第です。ただ、周りを気にしてはいけません。ここで譲ったら俺は脚光を浴びるに違いないと思うことも傲慢です。ただ無心に自分の規範の中で行動するのです。
教師の資質
本当はこのような心得は誰でもが持っておくべきです。でも特に、教師という仕事はこの考えをなおざりにしてはいけません。
学校の先生は学問を教えるだけが仕事ではありません。生徒指導、つまりほめたり、叱ったりの賞罰の評価も同時に行わなければならないのです。
評価には基準が存在します。その基準は教育者の価値観(規範)で決まります。
例えば昨日、私が学生ボランティアであったことを挙げると、授業中ウィンドブレーカーを着ている子に対して着用禁止だと一貫して注意していました。
その先生のことを悪く言うわけではありませんが、その子がどうしても寒いと言い、暖房の温度もそれ以上あげられない状況だったら、私なら特別処置としてその日だけウィンドブレーカーの着用を許します。寒くて授業が聞けないというのは本末転倒だからです。
他にも、バレンタインのチョコレートを見かけたらどうするか。叱るか、注意喚起で済ますか、スルーするか、人によって基準は異なります。
個の規範はそれぞれ違って当たり前です。
でも、全員一致でなければならない規範も存在します。例えば、授業妨害、カンニング、暴力、など様々ありますが、これらはすべて許してはなりません。規範にも最低限持つべきものも存在します。
教育者が子供に伝えようとする価値と彼自身の行動(「しめし」)との間に矛盾があったり、教育者の価値が社会的に支持されていないのであれば、子供は不信に思います。
規範にもそれぞれ個人の範囲があるものの、その規範が社会の規範に適したものでなければならないのです。
そして教師は常に社会の規範に適した行動が求められるのです。
「みんな仲良し」の裏にある怖さ
部活やサークルで「俺らはみんな仲が良い」と豪語する光景を見て、私は胡散臭く感じる。
あなたが今どんなに良いグループに属していても、一人や二人は話にくい、2人きりになったときに気まずい、といった経験があるだろう。百歩譲ってそんな経験がないなら、あなたたちのグループはすこぶるコミュ力に優れた人たちの集まりなのだろう。
でも大抵の場合、みんな仲が良いと豪語するグループはいずれ破綻する。
たまたまその活動に興味をもった人の集まりのなかで、全員同じように仲良くしろと言われても無理な話だ。
本当に気が合う、本当に価値観のあう人たちの集まりが本来の仲良しの形だ。
現実世界のなかでは、表面的には仲が良いように見えても心の中では、嫌いな人、苦手な人が必ずいる。
そこを、みんな仲良くしなければならないという圧力がかった風習で第三者からの干渉が入ると、かえってどぎまぎするし、仲違いするに違いない。
私は断言して言う。
みんな仲良しというグループほどもめる
「みんな仲良く」は聞こえはいい。
でも裏を返せば、集団の真ん中に圧力がかかっているということだ。
中には、「俺はみんなと仲良くしたくない」っていう人が出てくるかもしれない。
そんな人が出てくると、まず、排除の動きが始まる。
人間関係崩壊の予兆だ。
では、どうすればいいのか、、、、
大事なことは、「みんな仲良く」ではなく、ほどほどに。
学校にしろ、会社にしろ、どこへ行っても、嫌な奴は絶対にいる。
そんな人と仲良くはしなくてもいいけれど、仕事のためには協力する必要はある。
それ以上関わらなかったらいい話だ。
嫌な人がいてもほどほどに、そして嫌な奴がいても排除しちゃダメ。
これを念頭に置かなくてはならない。
・大人だけではない
私は、小学校の教室に「みんな仲良し」という掲示を見るたびに違和感を感じる。
小中学校のなかで友人関係のことで悩み、それがエスカレートして登校拒否や自殺する子は少なくない。
黒板の上に掲げられたきれいごとのようなスローガンはそのような子の苦しみに拍車をかけているようでしかならない。
でも、社会人になると友人よりも会社などで仕事上の付き合いが多くなる。
だからこそ、
ドライな人間関係を子供にも習得させる
これは林修の初耳学でも紹介されたPRESIDENT Onlineの記事の小見出しの言葉でもある。
「社会に出たら、ドロドロの関係はまずい。ドライな関係の中で共通の目的に向かうチームになればいい。だから大人になったらドライな関係でやっていくのだから、今もドライに考えていいよ。」
と林先生は語る。
人生を長いスパンで考えた時、小中学校の交友関係など、長い人生においては大して重要ではない。
なぜなら社会に出た時、そんな人と会うのは1年で多くても1、2回だし、一生会わない人だっている。
人生は長いストーリーで、そこにはその人しかいなくても次のシーンに移ったら別の人がいる。
でも、学校という狭いコミュニティの中でしか世界を見れていない子供にとって、それを気づくのは難しい。
だからこそ、先生をはじめ、周りの大人が伝えてあげなくてはならない。
本当に大切な人だけ大切にすればきっと幸せになれる
ということを